ベーシスト事典/Bassist Encyclopedia

ベーシスト事典/Bassist Encyclopedia Vol.05 小原礼

Vol.05 小原礼さん 『チャック・レイニーの音は、やわらかいゴムまりって感じ。 それとベースのトーンをとても大事にする人だなと思いましたね。』

第五回目のゲストは、小原礼さんをお迎えしました。

2014 8/8 @ ラボレコーダーズ西麻布

プロのベーシストになった頃の小原礼さんと、その後のキャリア。

小原礼 1951年11月17日。東京、大田区生まれ。

小原さん:一番最初はピアノ。クラシックピアノで4才くらい。それからギターを。中学に入った時に、林立夫と同級だったのでバンドを始めるんだけど。お互い何もしていなかったし。一番最初にミュージシャンで友達になったのが林立夫で、未だに一緒にやっているしね。で高校になると違う学校だったんだけど茂(鈴木茂)と仲良くなったり、幸宏(高橋幸宏)は1つ下で、立教だった。

僕が中学3年の時、細野さん(細野晴臣)は大学1年で、細野さん主催のアマチュアのリサイタルに呼ばれて行って、演奏したりしてね。もうみんなこの頃からの付き合い。林と知り合ったのが13才の頃だから、もう50年くらい。

だから僕にとって中学、高校くらいから東京のミュージシャンシーンが始まった感じだよね。で、その頃は知らないバンドを探すことが喜びだったから、モビー・グレイプ、バッファロー・スプリングフィールド、ストロベリー・アラームクロックとか。あとFENを聞いて「なんだこれは!」みたいな時代だったからね。よく探し歩いたな。ギターのあと、ベースを持ったのは、高校の終わり頃だったかな。高2〜高3年あたり。

初めてギャラを貰ったのは、CMのスタジオ仕事。幸宏のお兄さんがCMの制作会社をやっていて幸宏が17、僕が18くらいの時で、朝10時から青山のアバコやKRC、アオイスタジオなんかでやったのが最初の仕事です。そこからスタジオワークが始まっていくんだけど、まわりはジャズの先輩ばかり。ギターの直井さん(直井隆雄)、杉本さん(杉本喜代志)、水谷さん(水谷公生)、ピアノは羽健さん(羽田健太郎)、ドラムは石川さん(石川昌)。僕が始める前のベースは江藤さん(江藤勲)がいらっしゃったわけだけど、こっちは子供だったから(笑)おとなのジャズ、面白かったですよ。

そのちょっと前の16〜7才の頃に、小坂忠さんのバンド「フローラル」ってバンドがあって、このバンドが後に「エイプリル・フール」となるんだよね。細野さん、柳田ヒロ松本隆がメンバーで、六本木のディスコによく出ていてね。細野さんは僕より4つ上だから20才くらい。立教の大学生の時で長髪でパンタロン履いていた時代ですよ。林が16才になったんで軽自動車の免許をとって、夜中になると家に迎えに来てくれてね。家を抜け出し(笑)、六本木のディスコへ遊びに行ったんですよ。そのあと幸宏や林とドラム、ベースでチームを組んでやっていましたよ。あと、チトさん(チト河内)と一緒に五輪真弓、吉田拓郎のツアーをやった。メンバーはチトさんとヒロさん、で高中(高中正義)だったかな。

幸宏と僕はデビュー直前のガロに入り、中津川フォークジャンボリーにも行きましたね。幸宏と幸宏の友達と僕の3人でCSNみたいなコーラスバンドやってて、「結構イケテルなぁ〜」なんて思ってたんだけど、ガロを聞いたら、こっちの方が上手いな〜と思ったんで、「俺たちこのバンドに入るから」ってことで無理矢理入って(笑)、バックを始めたんですよ。

そのあたりでトノバン(加藤和彦)と知り合って、ミカバンド(サディスティック・ミカ・バンド)に誘われる事になったんです。21才の頃かな。最初のドラマーは、つのひろ(つのだ☆ひろ)で、シングル1枚だけ出しただけなんだけど、自分のバンドを結成するってことで抜ける事に。72年、幸宏と僕が参加し、いよいよバンドがスタートするわけです。2枚のアルバム『サディスティック・ミカ・バンド (73年) 』『黒船 (74年)』を作って74年には抜けていたかな。

『APLYL FOOL』(69年)

『APLYL FOOL』(69年)

『GARO3』(72年)

『GARO3』(72年)

『サディスティック・ミカ・バンド』(73年)

『サディスティック・ミカ・バンド』(73年)

『黒船』(74年)

『黒船』(74年)

この後はスタジオの仕事やりつつ、大村憲司やポンタ(村上ポンタ秀一)と仲が良かったんで、バンブーってバンドをやったりとか、カミーノって言うバンドをやったんですよ。バンブーは、ポンタと林のダブルドラムでやっていてね。で、林がダメな時は神戸のドラマーで、ウィルウェヴァー(Martin Willweber)ってドラマーがいて、彼が叩いたりしていて。ギターは憲司、キーボードと歌がジョン山崎今井裕 (Key)やモツ(浜口茂外也)(Perc)もいて結構大所帯なバンドだったね。でカミーノは自然発生的に出来たバンドで、僕と憲司、ポンタ、それに是方博邦の4人でブルースバンドをやったのね。その間にはいろんな人が来て、しーちゃん(井上茂)、薩摩君(薩摩光二)、クンチョウ(堤 和美)と、関西のミュージシャンがいっぱいいたのね。憲司も神戸だし。だからわりと関西の人たちとは知り合っていた。僕が24〜5才の頃だから、75〜6年の頃だね。で77年に1年ほど渡米するんだけど、最初は向こうの状況を見たりして、それで帰ってきてどうしようかと思ったので、1年間考えながらスタジオの仕事を一生懸命たくさんやったの。この時代にKYLYNカクトウギ・セッションなんて言うのがあって、教授(坂本龍一)とかアッコちゃん(矢野顕子)とかが集まって、六本木PIT INNでライブをやったり、レコーディングしたりしていてね。いわゆるジャズ・フュージョンですね。これが78〜9年。それで79年の秋に再び渡米して永住することにしたの。

・KYLYN; 渡辺香津美、坂本龍一、矢野顕子、益田幹夫、小原礼、村上秀一、高橋ユキヒロ、ペッカー、向井滋春、峰厚介、本多俊之、清水靖晃。

・カクトウギ・セッション;坂本龍一、矢野顕子、大村憲司、高橋ユキヒロ、小原礼、鈴木茂、   松原正樹、山下達郎、吉田美奈子など。他にも今剛、細野晴臣、高橋ゲタオ、村上秀一もライブでは参加。

『KYLYN』(79年)

『KYLYN』(79年)

『KYLYN LIVE』(79年)

『KYLYN LIVE』(79年)

『サマー・ナーヴス』(79年)

『サマー・ナーヴス』(79年)

渡米して、その時に知り合ったのが、プロデューサーのロブ・フラボニー(Rob Fraboni)。映画「The Last waltz」のプロデューサーだった人でね。でThe Bandのスタジオを彼らと経営をしていた人だから、The Bandの仲間でもあった訳で。

その彼が「良い!」って言うんで行ったレコーディングがイアン・マクラガン(Ian McLagan)のレコーディング。それでアルバム作って、ツアーしている時に、ロブはボニー(Bonnie Raitt)のプロデュースもやるので、「このバンドでやろうよ」と言うこともあり、バンドでレコーディングをして、ツアーをやることに。マリブにシャングリラ・スタジオと言うスタジオがあって、そこに2〜3年入り浸ってリハーサルもそこでしていた。

Bump Band;Ian Mclagan(key)、Ray O’Hara(b)、Ricky Fataar(dr)、Johnny Lee Schell(g)
Ian Mclagan;「Bump In The Night 80年」
Bonnie Raitt;「Green Light 82年」「Nine Lives 86年」
Renée Geyer;「So Lucky81年」
 

『Bump In The Night』(80年)

『Bump In The Night』(80年)

『Green Light』(82年)

『Green Light』(82年)

『Nine Lives』(86年)

『Nine Lives』(86年)

その後、ボニーのバンドをやめてマック(イアン・マクラガン)のバンドをやることにしたんだけど、ドラムはそのままボニーのバンドに残ったんで、いろいろな人とセッションしてね。ミック・フリートウッドともやったし、イアン・ウォーレスミッチ・ミッチェルはバンドとして、全米のツアーもしました。

そうこうしている内に、日本から呼ばれるようになり、久しぶりに帰ってきたのが、86年の教授(坂本龍一)のメディア・バーンのツアーって言うのがあってね。僕と教授以外は全員ニューヨークのミュージシャンで、3ヶ月くらいやったかな。で次に幸宏のツアーを頼まれて。この頃から向こうと、こっちを行ったり来たりが続き、ツアーを頼まれると日本に帰ってくるって言う感じが、暫く続きました。また同じ頃、亜美ちゃん(尾崎亜美)のレコーディングがアメリカであり、そこで知り合っていろいろと始めるんです。あとはMIYA(THE BOOMの宮沢和史)のソロを手伝い、ブラジルのミュージシャンと2回くらいツアーをしましたね。この時天才パンディエロ奏者マルコス・スザーノとも仲良くなり、リオまで遊びに行きました。

この後は、亜美ちゃんのアルバムや、他の人のアルバムでのレコーディングが暫く続き、2000年と2002年に矢野顕子、大貫妙子鈴木慶一奥田民生とビューティフル・ソングス「Beautiful Songs」って言うツアーとレコーディングをしました。民生とはそこからの付き合いです。

『Media Bahn Live』(86年)

『Media Bahn Live』(86年)

LIVE Beautiful Songs(00年)

LIVE Beautiful Songs(00年)

soup尾崎亜美(12年)

soup AMII OZAKI (12年)

で、最近の話ですが、屋敷豪太とThe Renaissanceをやっています。彼とは西麻布の店で良く会ってましたね。その店は夜中によくセッションが始まるんですよ。何年か前にそこでSTONESの打ち上げがあって(2006年)、ひとしきりのセッションもあり、民生と飲んでいた時に、誰かがまたドラムセットを組んで叩き始めたの。その時、「このドラムいいなあ!」って思ったの。その時は他の人がベース弾いていたんで、ちょっとそのベースを借りて弾き始めたのね。そしたら民生もギター弾き始めちゃって、盛り上がっちゃたの。この後、この店の何十周年かのイベントが渋谷のON AIRであって,ビートルズのコピーバンドで「ジートルズ」をやろうってことになったの。それでその時は、豪太と民生と僕と陽水(井上陽水)でやったの(笑)僕が「ポール小原」で、豪太が「リンゴ屋敷」。民生が「ジョージ奥田」。陽水は「井上ジョン」(笑)もうマニアックな曲やってね、面白かったね。未だに持っているからね、そこで撮ったDVD。(笑)この時が豪太と初めてやったプロジェクトで、この後、豪太とは曲の趣味が似ていたので、二人で曲を書き始めたの。2009年の正月に新年会を二人でしていて、グラス傾けて「ルネッサーンス」ってやっていたんですよ。でこれがバンド名になったんだけどね(笑)それで曲をいっぱい書いて、お互い時間がなかったんで、会った時に集中して詩を書いたりダビングして、今年の3月にアルバムを出したんです。メジャーデビュー。(笑)もう、みんなに聞いて貰いたい一押しのアルバムですね。

The Renaissance

The Renaissance

『Renaissance 1er』

『Renaissance 1er』

The Renaissance関連サイト
http://www.musicman-net.com/artist/34140.html
http://ymmplayer.seesaa.net/article/393462922.html

小原礼、関連サイト
http://www4.plala.or.jp/rayohara/sanka/sanka.html

最初にご自身が参加されたアルバムで、想い入れのあるものは何でしょうか?

やっぱりこれはミカバンドだね。ミカバンドの2枚。1枚目は訳がわからず、2枚目はクリス・トーマスが来てくれたんで、イギリスのスタイル、やり方をしっかり見る事が出来たんでとっても身になりましたね。その後アメリカに行くと、ここではアメリカのスタイルを間近で見る事にもなり、両方を経験出来た事が今の自分の肥やしとなっていますね。

では当時の使用楽器や今、使用されている楽器についてもお聞かせ下さい。

今日持って来たこれですよ。62年のプレシジョン。サンバーストでスラブネック。まだ他にいろいろあるんだけど、一番好きで未だに使っています。

Fender Precision Bassと小原氏

Fender Precision Bassと小原氏

小原礼、オフィシャルサイト小原礼楽器関連サイト
http://ray-ohara.syncl.jp/?p=diary&di=864887

小原礼楽器関連サイト
http://www.ceres.dti.ne.jp/~warnerg/G%26Boba2.html

ありがとうございます。小原さんが初めて聴いたチャック・レイニーの音が入ったアルバムは、どのアルバムでしょうか?

僕が持っていたのでは 「The Fugs」の2枚目『The Fugs Second Album(67)』と「The Rascals」の『Freedom Suites(67)』、一番よく聞いていたのはチャックのアルバム「Chuck Rainey」の『Coaltion(69)』。最初に聞いたのはThe FugsかThe Rascalsのどっちかですね。

『The Fugs Second Album』(67年)

『The Fugs Second Album』(67年)

『Freedom Suites』(67年)

『Freedom Suites』(67年)

『Coaltion』(69年)

『Coaltion』(69年)

The Fugsはマニアックですね(笑)。それではこの後、チャック・レイニーが参加しているアルバムを聴いていて、印象に残っているアルバムは何ですか?

小原礼さん

この後はクインシー・ジョーンズ「Quincy Jones」『Smackwater Jack(71)』もよく聞いていたんだけど、なんたって好きだったのは林や幸宏とよく聞いていたアレサ・フランクリンのアルバムの中に、バーナード・パーディーとチャック・レイニーのコンビで、『Until You Come Back to Me (That’s What I’m Gonna Do)』って言う曲があるんですよ。多分「Aretha Franklin」『Let Me in Your Life(74)』に、入っていると思う。(小原さんの、ご記憶のとおりのアルバムでした)

これは未だに好きなんだよね。このアルバムのパーディーとチャック。いやぁーもう、イカシてんなぁーって感じ(笑)。ソウルなんだけど、すごいポップなのよね。もうすごく格好良いの、ベースとドラムが。よーく歌を、イイ感じでサポートしてて、たまんないですよ!これはね(笑)。

他には「Esther Phillips」『Confessin’Blues(70)』とか「Junior Mance」『With A Lotta Help From My Friends(70)』それに「Marlena Shaw」『Who Is This Bitch,Anyway?(74)』もね。

Quincy Jones『Smackwater Jack』(71年)

Quincy Jones『Smackwater Jack』(71年)

『Let Me in Your Life』(74年)

『Let Me in Your Life』(74年)

『Confessin’Blues』(70年)

『Confessin’Blues』(70年)

『With A Lotta Help From My Friends』(70年)

『With A Lotta Help From My Friends』(70年)

『Who Is This Bitch, Anyway?』(74年)

『Who Is This Bitch, Anyway?』(74年)

アレサの曲でのチャックのプレイは神業ですね。では小原さんは、それらのアルバムを聴いた時、チャックさんの事を、どのように思われましたか?

やわらかい音を出しているんだなっと思いました。ジェームス・ジェマーソンは固いゴムまりのような感じがして、チャック・レイニーはやわらかいゴムまりって感じで。だからテニスボールで言うとチャック・レイニーは軟式って感じで、ジェームス・ジェマーソンは硬式って感じ。二人ともすごく好きなんだけどね。(笑)ポイン、ポインとかポオン、ポオンとかね。あと独特の和音だったりを、やっている感じがね、チャックさんはとてもクリエイティブで想像力豊かな人だなと。それとベースのトーンをとても大事にする人だなとも思いましたね。

小原さんならではの表現、ありがとうございます。では最後ですが、チャックさんに一言、お願いします。

僕たちの世代のベースプレイヤーは、あなたの演奏から多大な影響を受けています。いつまでも健康で、いつまでも演奏し続けてください。


17 11月 2014


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